「もっとたりないふたり」について

もう3ヶ月も前のことになるけど、「もっとたりないふたり」が終わってしまった。最終回をむかえた時に、思ったことがあるので、折角なのでここにも書いておこうと思います。

「社会性がない」ということを話の種にして、あれこれ語っていたのが面白くて、そういう「社会性がない」ということに対しての自覚がまずあって、そしてそれが生きていく上で何らかのつまづきになっているということを、共有して、しかも面白く語れる場があるということが、すごくいいなって思って見ていた。

それで、この「社会性がない」という点は、これからも無闇に改善しないでほしいと思った。「改善」なんていう言葉を無批判に使ってしまったけど、これは本当は「改悪」であるかもしれないと思います。「社会性がない」というのは、生きる上で、自分の形のいびつさに気づいて、他者とのかかわりに、なにかしらの違和感を抱いている、ということに言い換えることができると思う。この、持っている違和感に気づけたということは、すごく重要なんじゃないかと思う。

逆に、「社会性がある」とか、なんとなく充足している、と思ってしまえるということは、自分の形のいびつさに無頓着で鈍感だということなのではないだろうか。文学でも、主人公に一点の欠けたところのない人間が据えられることってあまりない。そもそも、欠けたところのない人間なんていなくて、もし自分がそうであると思えるのなら、それは自分のいびつさに気づかずにいるだけだろう。

だから、「社会性がない」ということに対して、今後、なにかしらの折り合いをつけることはあるとしても、自分のいびつさに敏感であることだけは、持ち続けてほしい、なんて勝手に思いました。

きっと、この人達なら、社会性のなさに折り合いがついても、また今後別の問題に直面することになって、それになんとか折り合いをつけようとするんだろうし、それがまた多くの人の共感を呼ぶんだろうなって思います。