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ラバーガールを「感情を出さない」コントユニットと形容するのは正しいのか

ラバーガールが気になっていて、いろいろな記事を読んだりしている。ラバーガールwikipediaによると、「感情を出さない」という評価を受けている、とある。確かに、インタビューなどでもさらに加えて「淡々としている」「シュールである」などと評されている。しかしはたして「感情を出さない」という評価は正しいのだろうか。

ラバーガールが「感情を出さない」と評価されることと、平田オリザ氏の演劇や、保坂和志氏の小説が、「何も起こらない」という評価がされることとは似ている。平田オリザ氏の演劇、保坂和志氏の小説に対して「何も起こらない」というのは、適切ではない。何も起こらないのではない。読み手や観客の中に、「フィクションの作品に対して期待している過大なできごと」がすでにあり、その期待に比べて、平田オリザ氏の演劇や保坂和志氏の小説の中で起こるできごとが些かささやかなだけなのであり、決して何も起きないわけではない。*1

「何も起こらない」は、つまり正確ではない。

ラバーガールについて、少し古い記事のようだが、この記事を少し引用してみたい。


「積極的に気持ち悪くいく」静かなるコント芸人・ラバーガールの思考 - 日刊サイゾー

――お2人のコントでは、どんな役柄でもお互い敬語で話したりしていて、自然体なところがありますね。
飛永 普通のお笑いとかだと『なんでだよ!』とか言ったりするじゃないですか。でも、知らない人に普段そんなこと言わねえだろ、っていうところがあって。
大水 初対面の店員とお客さんの関係で、ツッコミで頭を叩くとかありえないだろうって思っちゃうんですよね。

ラバーガールの場合も同様に、「感情を出さない」というわけではなく、コントで期待されている、というか、視る側がコントにおいて平均的だと感じている過大な感情表現に比べて、過大ではない感情表現であるだけであり、感情がないわけではない。むしろこれまであまり疑問に思われていなかった、コント内のやりとりの不自然さ、それは大袈裟だったり、日常生活ではありえない反応であったり、に違和感を持っているということであり、それらを削いで、よりリアリティのある方向に成立させようとする彼らの感覚は鋭い。コントで設定された二人の関係性に忠実な感情表現をしているだけだ。だから、鈍さを予感させるような「感情を出さない」という表現は的確ではないと思う。

先日の渋谷コントセンターにて、ラバーガールが不動産屋のコントを終えたあとに、そのコントの最後の方の家賃の要求の理不尽な点に対して「今考えてみるとこのコント怖い」という主旨のことを話していて、ラバーガールの二人の感覚に非常に好感を持った。

 

余談だけど、お笑いの場合、第一に重要なのが「笑いがあるかどうか」という明確な点であり、どんな笑いの取り方であるかというのは、特に外野が語ったり分析したりするのは野暮であるという感覚があるし、ましてコントとしての演技・演出についてなんてあまり体系的に語られていない。それでもやっぱりこうやってブログに思ったことを書いてしまうし、芸論みたいなものは読んでいてすごく楽しいし、芸人自身から聞き出すインタビュー記事は特に大好きだ。

*1:保坂和志氏は、『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)のなかで、
「デビューして一〇年以上経って、私の小説もだいぶ「保坂和志の小説」として固有の読まれ方をされるようになったけれど、それでもまだまだ「ストーリー性に乏しい」という感想を言われる。そういう感想を持つ人は、限定された小説のイメージを持っていて、いつも自分の持っている小説のイメージと比較して、初めて出会う小説を読んでいるということだが…(略)」(p.164)と述べている。
平田オリザ氏は、『都市に祝祭はいらない』(晩聲社)のなかで、ギリシャ悲劇の『エレクトラ』と比較しながら、
「『火宅か修羅か』で私は、人間の意識の最も小さな振れ幅の一つを描こうとした。この小さな振れ幅もまた、普段は気がつくことのない、あるいは気がつかないふりをしている類の思いである。」(p.50)と述べている。