キングオブコント2015決勝戦 感想

今年のキングオブコントを観たので感想を書く。

まえがき

まず前提として、どのコントも面白く観たということ、優勝したコロコロチキチキペッパーズのコントは、2本ともとても楽しくて大好きだった、ということ。その上で、準決勝を劇場で生で観て肌で感じたコントの面白さと、テレビを通して、つまりテレビ局で観覧している観客の空気を否応なく飲み込まされてコントを見るということ、テレビを介するとはこういうことか、ということをはっきりと体感し、これを書き留めなければならないという気分になっている。

また、総じて、これまでのキングオブコントの評価基準を想定して戦ったファイナリストには厳しい結果になったと思う。観る側としても、この変わりように何も思わないというわけにはいかなかった。けれど、無傷で大きな変化はありえないだろうと思うから、飲み込みたい。来年もやってほしい。

(追記2015.10.13)とは、思うものの、この変化は必要な変化なのだろうか。コロコロチキチキペッパーズのコントは、面白かったけれども、このキングオブコントで評価されなくても、別の番組であっても世に出たコントのように思う。キングオブコントのこれまでの価値は、そういった既にある番組の価値基準とは異なる点でコントが評価されてきたことに存在意義があったと思う。異なる点というのは、コント文化の大半を担う劇場を中心に今まさに現役でコントを作り続けているセミファイナリストが評価を下すという点だ。それはコントの文化の最先端の価値基準だった。それを捨ててしまった今、キングオブコントの価値はいかほどのものなのだろうか…。

空気を共有することについて

笑いは共有するもので、笑いは伝播するものだ。同じ文化を共有していることが、笑いを共有することの前提条件だ。

準決勝出場者が審査をするということは、実は、審査するということ以外にも、とても重要な役割を担っていたのだ。彼らは観客でもあった。生の空気や豊かさを、彼らを媒介してテレビの前の私たちは感じていたのだ。コントの作り手とコントの観客とは、この小さな劇場文化の中では隔たった存在であったけれど、同じコントの文化のその先を観たいという気持ちを共有していたのではないかと思う。

テレビの中でのコントのウケ方が、これまでテレビ越しに観てきたキングオブコントと違った。それはもはや繰り返し言うまでもなく、100人の準決勝進出者の不在による。だから、準決勝で、面白さを共有したコントが、キングオブコント決勝戦の舞台で、文化を共有しない観客の空気を背負わされて上演したわけだから、面白さを共有されなかったのだと思う。違う文化の中で戦わされたといった違和感があった。これまでの評価基準を想定して磨いたコントを全く別の価値基準に照らされ敗北する。いや、敗北させられる。この評価の変化が、予め知らされていたならばまだしも、決勝からの急な変更だ。乱暴だと思う。コントのウケ方が、これまでテレビで観てきたキングオブコントと違った。テレビの前の観客は、テレビの中の観客の空気を、好き嫌いにかかわらず飲み込まされる。このことに無批判で無意識でいてはならない。面白さの側面は色々あるのだから、テレビの中の観客が咀嚼できなかったということを以って、敗北を感じてはならない。テレビだけを観た視聴者の多くは、コントの良し悪しをテレビの中の評価を無意識に受け入れて判断するだろう。テレビの情報は「生」の情報の、枝を切り葉を切り、色をつけたものだということを加味して考えなければならない。それから、自分が面白かったと思うコントが予想外の低評価だった、という人は、劇場にコントを観に行くことを勧めたいと思った。

評価基準について

もちろん、評価されたコントが面白くなかったなどというつもりは毛頭ない。さまざまな面白さの価値があり、どの価値基準に拠って評価されたのか、または評価されなかったのか。それが明確にならなければならない。それは本来、1回戦から明瞭にされるべきだと思う。面白さには多様性があり、そのうち一つの面で評価を下した結果であるということをしっかり認識しなければならないと思う。また、審査員は評価基準を明確にし、自分の好き嫌いを客観視して主観をなるべく排除しようとする姿勢、批評の言葉と内省的な判断力を持たなければならないと思った。松本人志さんの「昔の僕なら好きだった」という言葉は、すこし自己中心的で暴力的な言葉だと思った。

個人的な発見

準決勝を観て、私は実のところ、コロコロチキチキペッパーズの妖精のコントと、ロッチの試着室のコントは、そこまで面白いものだと思わなかったのだけど、テレビ越しに観たこの2本のコントは、とても面白かった。テレビの中の観客のウケ方が私にも伝播して、私が普段気づきにくい面白さを発見し得たのだと言える。またロッチのコントは、舞台の中央に設置された小さな試着室の中の様子が、劇場の私の席からは感じ取りにくかったのだけど、カメラを通して演技を近くで観られるメリットがテレビにはあった。